名古屋と言えば、「トヨタ」、「エビふりゃぁ」、「道路」などが連想される場合があるが、どれも正鵠を射た連想例とは言い難い。ゴルフで言えばOBでもないが、フェアウエイでもないといったところか。先の大戦の空襲で街全体が焼失した名古屋には、「尾張名古屋は城で持つ」を地で行く城下町風情が感じられる空間や機会はなくなっている。城下町時代の祭りも知られていない。だから、名古屋と聞いて祭りを連想する人はほとんどいまい。ここでは、祭りを切り口に、城下町・名古屋のルーツを紐解いてみたい。
1.現代・名古屋の代表的な祭り -これらは戦後に始まったもの-
現代の名古屋で繰り広げられている代表的で規模の大きな祭りを挙げてみると、「名古屋まつり」、「名古屋みなと祭」、「どまつり」などが上げられるのではないかと思う。これらの祭りを、簡単にご紹介してみたい。
まずは、「名古屋まつり」。1955年(昭和30年)に始まったもので、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が約600人を従えて行進する郷土英傑行列をはじめ、指定文化財の山車が繰り出すほか、郷土芸能祭やシスターシティフェスティバルなどの行事が一斉に開催される名古屋最大の祭りである。何と言っても三英傑とお姫さま方を市民から募り、各々に扮してパレードの中心的役割を担うところがメインイベントで、この街が三英傑にゆかりがあることを自負し、発信しようとしてきたことを物語る祭りだ。
次に、「名古屋みなと祭」。戦災復興を願って1946年(昭和21年)に始まった祭りで、子ども神輿に子ども獅子、神楽隊や音楽隊など約1,600名もがパレードするほか、市の無形民俗文化財に指定されている筏師一本乗りが披露され、花火などでも賑わう。筏師一本乗りは、名古屋港が木材港として発展した歴史を感じさせ、港町としての名古屋の側面を発信する重要な行事だと思う。
そして、「どまつり(にっぽんど真ん中祭り)」。1999年(平成11年)に地元学生の手で創設された祭りで、高知県の「よさこい祭り」と札幌市の「YOSAKOIソーラン祭り」を参考にした踊りの祭典だ。全国から多彩なチームが参加し、20年余りのうちに名古屋の夏の風物詩となった。
これらは、全て戦後に始まった祭りである。戦災復興事業によって今日の繁栄をつかみ取った名古屋らしい一面とは言える。しかし、名古屋のルーツは約70年前の戦災復興ではなく、約400年前の「清州越し」であり、尾張徳川家の統治した城下町にあることは間違いない。徳川筆頭家の城下では、祭りも絢爛豪華なものであった。そこで、こうした城下町時代を彩った代表的な名古屋の祭りを次に紹介したい。
2.城下町・名古屋には三大祭があった -400年来の歴史が息づく-
■東照宮祭
1618年、徳川家康の三回忌の翌年に、尾張藩初代藩主の徳川義直(家康の九男)によって名古屋東照宮が建立された(名古屋市中区丸の内に現存し那古野神社に隣接)。この東照宮のお祭りが東照宮祭で、戦前までは名古屋祭と称されていたという。家康公を偲ぶ祭礼で、9両の山車が本町通を東照宮から若宮八幡社まで行進した。現在の祭礼は4月16日、17日に行われている。
家康公を祀る東照宮は、駿府城で死去した家康の棺が運ばれた久能山東照宮と、その後に遷座された日光東照宮が有名であるほか、全国各地に約130社が存在すると言われている。これらは、家康の没後、徳川・松平一門の大名をはじめ、譜代大名や外様大名による建立が相次いだためだというが、徳川筆頭家の義直により建立された名古屋東照宮は創建も早く、極彩色が施された華麗なものであったという。残念ながら、当時の社殿は1945年の空襲で焼失したため、往時の絢爛豪華さを見ることが今はできない。しかし、由緒ある東照宮であることに間違いなく、東照宮祭を当時の城下の人々が大切にしたであろうことは容易に想像できる。
■若宮祭
栄三丁目にある若宮八幡社のお祭りである。1671年に始まり、7両の山車が本町通を若宮八幡社から那古野神社まで行進した。かつては、天王祭と同日開催で、若宮祭と天王祭を総称して「祇園祭」と呼ばれていた史実がある。しかし、やはり1945年の戦災で社殿と山車4両が焼失し、焼失を免れた山車3両のうち1両が若宮八幡社に現存している。他の2両は、有松町と出来町に譲渡されて現存している。現在の祭礼は6月15日、16日に行われている。
若宮八幡社は、名古屋総鎮守とされている神社で、創建は古く701年頃と言われている。元来は名古屋城三の丸地区にあって亀尾天皇社(現、那古野神社)に隣接していたが、名古屋城築城にあたり、現在の場所に遷座された。100m道路として名高い若宮大通は、この若宮八幡社が命名の由来となっている。那古野神社とともに、当地を代表する鎮守の神社で、若宮八幡社とお城直下の那古野神社をつなぐ本町通が、当時の目抜き通りであった。
■天王祭
名古屋城の鎮守である那古野神社のお祭りである。戦国時代から車楽(だんじり)があったとされ、これに見舞車が加わり、往時は総勢16両で祭りが構成されたという。若宮祭と同日開催で「祇園祭」と総称され、那古野神社と若宮八幡社の間(本町通)を往復した。現在の祭礼は、7月15日が宵宮(車楽点灯)で、16日が朝祭となっている。
那古野神社は、911年創建の亀尾天王社が起源で、名古屋城築城の際に三の丸天王社と改名され、その後、須佐之男神社に改名された後に現在名に再び改名された。津島神社を総本社とする天王社のひとつである。本町通を名古屋城に向かって北進すると、城郭に入る手前に現存し、名古屋城の鎮守であったことが偲ばれる。
3.現代市民にとっての三社と祭 -多くの市民が知らない存在=城下町の断絶-
現代の名古屋市民の多くは、「名古屋に東照宮があるの?」「名古屋に祇園祭があった!?」と驚く人の方が多いと筆者は思う。上記の如く、これら三社と祭は名古屋のルーツと縁深く、名古屋城と切っても切れない存在なのであるが、現代社会では埋没した状況にある。これは、戦災で社殿と山車を含むほとんどの歴史的資源が焼失して以来、名古屋市のルーツである城下町という史実が埋没していることを意味する。換言すれば、三大祭を市民の多くが知らない事は、城下町の断絶を象徴していると言っても過言ではない。
名古屋のルーツは、徳川家康による名古屋城築城にあり(清州越しで城下町がスタート)、当時の名古屋の総鎮守であった若宮八幡社、名古屋城の鎮守であった那古野神社、そして名古屋城の築城を命じた家康公を祀る東照宮は、この城下町のシンボルともいえる三社だったのだ。そして、この三社による三大祭は、空襲を受けた70年ほど前までは営々と続いていた。このことを、多くの市民が共有できれば、市民にとって名古屋のまちへのまなざしは、変わるのではないかと想像する。歴史が好きな人でも、そうでない人でも、まちを象徴するものには一定の関心を持つのが常だ。市民が共通して関心を持つ事象が少ない事が、現代の名古屋の特徴とも言える中、このまま三大祭が埋没したままではいかにももったいない。
戦後に創設された祭りも定着し、立派な市民祭りとなった。しかし、これらに三大祭が加われば、名古屋は「祭りのまち」として多くの人に連想されることになり得るのではなかろうか。
4.由緒ある城下町であることを連想させる街へ -シビックプライドへの道程-
名古屋には、大都市ながらも「3つのゆとり(空間的ゆとり、時間的ゆとり、経済的ゆとり)」があって(vol.5ご参照)住み良いのだけれども、決定的なまち自慢に欠ける(vol.12ご参照)という市民意識がある。名古屋が持っている城下町としてのルーツを活かし、市民共通の関心事として三大祭が復活すれば、市内外の人々の名古屋に対するイメージに城下町が加わり、まち自慢のひとつになっていくと筆者は思う。さすれば、シビックプライドも自ずと向上していくだろう。そして、リニア時代には「名古屋に行こう」という機運醸成に一役買うことになるのではないかと思っている。三大祭の復活は簡単な道程ではなかろう。しかし、諦めるには惜しいルネサンス資源だと思う。