名古屋都市センターが2022年度「歴史まちづくり連続講座」第三回(最終回)を開催し「大津通」を取り上げた。講師は名古屋市役所OBで名古屋の都市計画史に詳しい杉山正大さん。大津通は近代名古屋の南北方向の背骨に当たる通りで、北部は官庁街に繋がり、南部は商業の中心地となっている。受講した講座を基に「大津通」の歴史と沿道に立地する主たる建物の地歴を振り返ってみたい。
1.大津町命名の由来と歴史 -清州越しで命名、本町通の裏筋に-
大津町の名は清州の城下町にみられ、名古屋市における命名は名古屋築城に伴う清州越しに由来する(清州から地名ともに町人を一斉に引っ越しさせた)。名古屋城下が整備された頃の大津町は、碁盤割の中央から東側にずれた辺りで、江戸期の名古屋において都心ではなく、高級武家地であった三の丸の東側から南側にかけて命名された。
大津町という町名と大津通という通り名の区別が難しいところだ。江戸期には大津通は「大津町筋」と呼称され、大津町筋の区間は外堀から万松寺までであった。そして、外堀から広小路通までの大津町筋北側の沿線は「大津町」、広小路よりも南側の大津町筋南側の沿線は「南大津町」と呼ばれていた。現在のパルコ辺りは「大津町下」という記載が地図に残されている。大津町は、広小路の北側と南側で区分して構成されたのである。
名古屋に長く居住する人々の中には、昭和41年に町名が大きく改変されたことを記憶している方も多いだろう。これは戦災復興土地区画整理事業の最終手続きとして復興換地が行われた際に町名変更が実施されたためだ。この時、大津町は三の丸三丁目と錦三丁目に、南大津町は栄三丁目と大須三丁目に組み込まれ、名古屋の町名から大津町は消えた。しかし、現代名古屋の南北主軸として重要な役割を果たす目抜き通りの一つとして、大津通は広く市民に親しまれている。
2.大津通の発展 -明治期に拡幅・延伸、戦災復興土地区画整理事業で現状に-
江戸期の大津町筋(大津通)は、現在の大津橋(外堀)から万松寺北東までの間で幅員3間(5.4m)の通りであった。この時代、名古屋城下の主軸は、名古屋城から熱田までを結ぶ本町通であったから、大津町筋はその東側にある裏筋に当たり、熱田の手前で本町通に合流した。沿道は町人が居住する町家か畑地であり、繁華街としての性格は有していなかった。大津町筋が大津通として発展するのは明治に入ってからである。
明治期に鉄道が敷設されて東海道線に熱田駅が開業した後、1907(明治40)年から1908(明治41)年にかけて栄~熱田駅前まで大津町筋が南側に延伸されるとともに(万松寺以南が延伸された)、堀切筋が拡幅されて広小路通になった(vol.99ご参照)と同じように幅員は13間(23.7m)に拡幅された。栄よりも北側(栄~大津橋)は、1919(大正8)年から1925(大正14)年にかけて13間(23.7m)に拡幅されている。これにより大津通は幅員の広い通りとして外堀から熱田まで貫通し、これを機に名古屋市電が大津通に敷設されたのであるが、これが名古屋の南北方向の主軸が本町通から大津町通に転換することを決定づけた。現在の幅員(30~40m)となったのは、戦災復興土地区画整理事業によるもので1946(昭和26)年~1981(昭和56)年にかけて整備された。
図表1は、明治期に大津通の広小路以南が延伸・拡幅された前後を示している。東海道線が開業し、その後に中央線が開業した様子が分かる。左図の1887(明治20)年では本町通が南北の主軸であり江戸時代の構造を色濃く残しているが、右図の1910(明治43)年には大津通の広小路以南が延伸拡幅されて熱田駅へと連絡していることが確認できる。この時点では広小路以北の大津通は拡幅前であり、北端は名古屋城の外堀で終わっている。
外堀に大津橋が架けられたのは、1933(昭和8)年に現在の名古屋市本庁舎が完成した際に共に整備されており、これによって大津通は城見通まで北に延伸されることとなり、名古屋市を南北に縦貫することとなる。因みに、都市計画上では都市計画道路大津町線は城見通2~天白大橋となっているが、市民の感覚では市役所から熱田までのイメージで定着しているように思われる。
3.大津通に立地する主要民間施設の地歴 -百貨店、ガスビル、電気ビルなど-
大津通は栄町交差点から南側が先に拡幅されて整備が進んだのであるが、このエリアは武家地よりも町人の住む町家が多いエリアであった。従って、大津通沿道には民間施設が多く、現代に通じる主要施設が歴史を刻んできた。以下では主要な建物の地歴を振り返りたい。
■旧栄広場(栄三丁目25番街区開発地)
大津通と広小路通が交差する北東の角地で名古屋三越の北迎である。ここは、1906年に日本銀行名古屋支店が立地した(日銀名古屋支店は1897に設置後ここに移転した)。レンガ造りの洋館で栄町交差点のランドマークとなっていた。しかし、戦災で焼失すると日銀は桜通伏見に移転したため空き地となり、1970年に名古屋市と松坂屋が取得して栄広場となっていた。両者は共同開発を長らく模索していたが、ようやく三菱地所による開発が決まり2026年に高層ビルが開業する予定である。ここにはコンラッドホテルの入居が予定されており、名古屋市における本格的高級ホテルの進出に沸き立つことだろう。
■BINO栄ビル
同じく栄交差点の北西角地にオープンしたBINOは日本生命所有のビルだ。1900(明治33)年に日生名古屋出張所が開設され、1910(明治43)年には東京駅舎を設計した辰野金吾氏による瀟洒な洋館が建設された。戦災で焼失した後、戦後は日生名古屋支店を経て日生栄町ビルとして長く知られていたが、老朽化に伴い2020年にBINO栄ビルとなった。但し、日生栄町ビルが9F建てであったのに対しBINOは5F建てであるから、将来再度建替えるまでの暫定利用のように映る。栄の新陳代謝を見極めようとしているかのようである。
■スカイルビル
明治政府によって廃藩置県が実施され、全国の基礎自治体は区町村に編成された。これに伴い名古屋区が誕生する。最初の名古屋区役所は外堀町に設置されたが、1880(明治21)年にここに移転した。1889(明治30)年に市政が施行されると同建物は名古屋市役所と名を改めた。しかし、火事で焼失したため新たに現中区役所の場所に市役所が移転新設され、この土地は伊藤呉服店に譲渡された。伊藤呉服店は本町通で創業し、茶屋町(外堀通り南側の京町筋)で発展した後、業態を百貨店に転換することを決め、1910(明治43)年にここで栄屋百貨店を開業する。その後、松坂屋本店を現在の位置に開業する(1937年)とここは松坂屋栄町店と改名して営業したが、戦災で焼失したため暫時2F建ての木造建築物を再建して東海銀行栄町支店に貸していた(1961~1971)。1973(昭和48)年にスカイルビルを建設開業し、丸栄スカイル、名鉄メルサをはじめとする様々な店舗が入居した商業ビルとして今日に至っている。
■名古屋三越
明治初期までは半僧坊という寺社であったが、1896(明治29)年に名古屋市立高等女学校(愛知県初の高女)が立地した。その後、名古屋高女は菊里町に移転(1926年)し、同じ建物を使用して名古屋市立商業学校(通称:CA)が立地した。名古屋高女はその後菊里高等学校に改名し、市立商業学校との合併を経て星ヶ丘に移転し現在に至る。名古屋高女と市立商業学校の用途を終えた(1926年)のち、空き地となっていたこの土地を中村呉服店が取得し、オリエンタル中村百貨店を開業した(1954年)。中村呉服店の創業地(本町通)は東海銀行に譲渡され、東海銀行本店を経て三菱UFJ銀行名古屋本部となっている。また、中村呉服店は栄進出に当たり、ビルの開発はオリエンタルビルが行い、中村百貨店が入居する形態をとった。その後、1980(昭和55)年に中村百貨店は三越百貨店に引き継がれ名古屋三越となり今日に至っている。現在も土地建物はオリエンタルビルが所有しており、リニア開業時期を目途に高層ビルへの建て替えが検討されている。
■栄ガスビル、大津通電気ビル
栄ガスビルの土地は、町家であったところを1908(明治41)年に名古屋瓦斯が取得して本社を置いた後、東邦瓦斯本社となった(1922~1924)。ほどなく東邦瓦斯本社が熱田区桜田町(現位置)に移転した後は東邦ガス本部営業所として使用され(1927~1945)、ガス器具販売所(1946~1950)、大津町サービスステーション(1950~1988)を経て1990年に栄ガスビルが建設されて現在に至っている。
大津通電気ビルの土地は、福寿生命保険が立地していた(1935~1942)が、中部電力の前身である中部配電本店が取得して立地し(1942~1951)、中部電力本社として使用された(1951~1963)。中部電力本社ビルが東新町に移転(現位置)した後は店舗等に貸し出していた模様だが、1992年に大津通電気ビルを建設して現在に至っている。
このように、大津通には名古屋を代表するインフラ企業の本社が迎え合うように立地していた歴史があり、現在は店舗、飲食店、オフィス、ホールなどとして利用されている。
■松坂屋本館
伊藤呉服店が百貨店に業態変更して栄に進出した(スカイルビル)後、現在の位置に松坂屋本店を開設したのは1925(大正14)年である。この頃は、伊藤家の居宅も併設されており、和洋折衷の瀟洒な建物は揚輝荘と呼ばれていた。揚輝荘は、現在覚王山に移築されて一般開放されながら名古屋市により保存されている。松坂屋は1937(昭和12)年にこの本店を増築するなどして順調に発展したが、空襲による火災で店舗を焼失した(1945年)。しかし、鉄筋コンクリート造の躯体は残っていたため、終戦とともにこれを利用して内装を新装(1945年)して営業を再開している。1953(昭和28)年には本店増築を行い、1964(昭和39)年に更なる増改築を行うなど増築を重ねて現在に至っている。
伊藤呉服店が百貨店への業態変更を決めて栄に進出したことが引き金となり、相次いで十一屋呉服店(丸栄)、中村呉服店(オリエンタル中村)が栄に進出した。また、松坂屋本店が現位置に立地した事で、大津通は商業通りとしての性格が決定づけられたとも言えよう。戦災により火災被害を受けた百貨店を、終戦とともに即座に再建した逞しさにも恐れ入る。松坂屋の発展と名古屋栄の発展は、密接な関わりを持っていた事が改めて伺える。
その他にも、大津通には多くの民間施設が立地している。興和本社は服部商店(江戸期の衣類問屋)が昭和15年に興亜紡績となり、1946年に興和分室を現位置に立地した。1954年に興和ビル(本社)を建設、1986年に現在の新興和ビルを建設した後、1988年にサウスハウスを増築して現在に至っている。中京銀行本店は法光寺の移転に伴い中京相互銀行として1969年に矢場町交差点に立地し、1989年からは中京銀行本店となった。また、名古屋PARCOはそれまで小規模な店舗や空き地、駐車場となっていた街区を統合して1989年に立地した。PARCOの立地が栄南に若者を呼び込む契機となったとも言われている。
大津通は、明治期に拡幅された後、大正期に市電通りとなって人々の往来が増加して発展して来たが、沿道に立地した民間資本の逞しい展開によって名古屋の目抜き通りとしての地位を築いてきたということが言えそうだ。そしてこの後も、新しい新陳代謝が起きることを期待したい。