Vol.80  名古屋市営交通100年を振り返る (その1)  -名古屋都市センター企画展を観覧して 【鉄道編】-

2022年7月20日(水)~8月7日(日)の期間に、名古屋都市センターが企画展「名古屋市営交通100年」を開催した。名古屋市に市営交通が誕生して100周年を迎えるにあたって企画されたものだ。還暦を過ぎた筆者にとっては、その歴史の半分以上を同時代に生きたことになる。観覧すると「そうだったなぁ」という回顧と、「そうだったのか!」という学びがあり楽しい。名古屋都市センターの受け売りを頼りに、名古屋市営交通100年を2回に分けて振り返る。本稿は「その1」鉄道編である。

1.名古屋市交通局の前身 「電気局」 誕生  -名古屋の発展と都市構造に大きく影響-

名古屋市内を移動するときは、必ずと言って良いほど市営交通を利用することになる。市内を走るJRや私鉄は少なく、民間のバス路線も限られていて、名古屋市内の公共交通(バス、地下鉄)は交通局によってパッケージ化されているのが名古屋の特徴だ。その名古屋市交通局は、2022年(令和4年)8月1日に創立100周年を迎えた。

名古屋市に鉄道が登場したのは1886年(明治19年)の名護屋駅(旧国鉄)開業に端を発する。当時の駅の場所は笹島で「笹島ステンション」と呼ばれた。1889年(明治22年)に東海道本線(東京~神戸間)が全通した後、市内では笹島~県庁前(当時は栄の武平通り)で路面電車が開業(1898年)した。京都に次いで国内2番目の電気鉄道で、運行していたのは「名古屋電気鉄道」、現在の名古屋鉄道の前身である。

その後、市内全域に路面電車の路線が伸びていったが、名古屋鉄道は郊外鉄道事業に専念するため、1922年(大正11年)8月1日に市内の路面鉄道事業を名古屋市に譲渡することとなった。譲受したのは同年に設立された名古屋市電気局(現在の交通局)で、ここに名古屋市営交通100年の歴史が始まったのである。

名古屋駅が現在の場所に移転した1937年(昭和12年)には、汎太平洋博覧会が港区で開催されるなど、市内の輸送需要が拡大した。これを機に、名古屋市電気局は新型車両の開発を行って投入するとともに、市街地周辺部を運行していた民間4社の路線を買収して市内路面電車網の一元化を図るなど、電気局の鉄道事業は順調に発展した。

しかし、第二次世界大戦の空襲で電気局の事業資産も甚大な被害を受けた。1945年(昭和20年)の終戦にともない、電気局は交通局と改称され、名古屋市の戦災復興事業と歩調を合わせながら路面電車事業(以後、市電)の復旧・拡充を鋭意進めていくこととなる。老朽化した車両の一掃、傷んだ設備の復旧、トロリーバスの廃止と市電への置き換え、そして更なる市電網の拡張などを精力的に進め、戦災復興を支えるとともに都市内交通を充実強化し、名古屋の発展を支えたのである。

こうした経過の中で市電は名古屋市内交通の花形となり、その敷設は都市構造にも影響を与えた。名古屋城を中心とした城下町の都市構造は本町通による南北軸を背骨としていたが、名古屋駅から栄までの市電敷設に伴い、名古屋市の経済軸は広小路通りを中心とした東西軸へと転換した。また、南北方向の市電を大津通りに敷設したことで、南北の主軸は本町通から大津通りへと移り変わった。伊藤呉服店(松坂屋)、中村呉服店(オリエンタル中村)、十一屋呉服店(丸栄)などが相次いで大津通りに移転して百貨店を開業したことで、大津通りが名古屋の商業中心となっていったのである。

また、名古屋まつりの時に走った花電車は人々を歓喜させた。筆者が幼少の頃は、花電車が走る日は家族や近隣の人たちと「花電車を見に行こう」という様式が根付いており、電車通りまで見に行ったことを覚えている。当時の子供たちにとって、市電の運転手や車掌さんは憧れの職業でもあり、名古屋市交通局は、高度経済成長期の名古屋市民をワクワクさせる役割をも担っていたのである。

2.市電から地下鉄へ  -幻に終わった相互直通計画-

モータリゼーションの発展により、道路上における車と路面電車の共存には不都合が多くなっていったため、市電は地下鉄へと変遷していくことになる。名古屋市における地下鉄の計画は戦前に始まっていたが、初めて都市計画決定されたのは戦災復興期の1950年(昭和25年)であった。名古屋都市センターの展示資料によると、この時の地下鉄計画は、名鉄・近鉄との相互乗り入れを前提としたものであったことが分かり興味深い。

重要な起点である名古屋駅では、当時空いていた国鉄零番ホームを借用して名鉄と相互直通することが計画された(図表1)。ここから錦通りへと高架で進み、その後堀川を越えてから掘割(半地下)で栄に向かう計画とされていた。また、名鉄とは名古屋駅、新川橋駅、水分橋駅、大曽根駅で相互直通、近鉄とは八田駅で相互直通することが計画されていたことも展示資料から分かった。

しかし、鉄道各社の費用負担が合意できず、各々の計画も干渉しあい、紆余曲折を経た後に国鉄零番ホームは使えなくなり、高架と掘割による計画も実施できず、名鉄・近鉄との相互直通も困難となって、最終的には全線を単独で地下に敷設することとなったようである。

最初に建設することとなった東山線は、第三軌条方式(走行用レール2本と集電用レール1本)を採用することでパンタグラフを排し、トンネル断面を小さくすることとされた。トンネル断面は小さい一方で、軌間(レールの幅)は市電や名鉄の狭軌とは異なり、新幹線や近鉄と同じ広軌が採用されている。但し、静粛性に配慮して車輪にゴムを挟んだ弾性車輪を使用することとしたため車両重量の制限を受け、車体長の短い小型車を採用した。こうして、特徴的な黄色い電車(黄電:きいでん)が生まれることとなり、1957年(昭和32年)に我が国3番目の地下鉄として開業(名古屋~栄町間)したのである。

また、地下鉄名古屋駅整備に合わせてナゴヤ地下街(現、名駅地下街サンロード)が開業したのであるが、これは日本初の本格的地下街であった。その後、名古屋では名駅地区と栄地区で地下街が発展して「地下街のまち」と言われるのであるが、その発祥は地下鉄整備と密接に結びついていたのである。

その後、1965年(昭和40年)に名城線(栄~市役所間)開業、1967年(昭和42年)に同線が金山に延伸、1969年(昭和44年)には東山線が藤が丘~中村公園で開通するなど、急ピッチに地下鉄整備が進められた。こうした地下鉄整備の推進は、同時に市電の廃止をも推し進めることになった。東山線開業直後の1961年(昭和36年)の時点で、1985年(昭和60年)までに市電を全廃する方針が示されている。

しかし、地下鉄建設が名古屋市交通局の財務を圧迫し、財政再建の観点から市電の廃止は加速を余儀なくされていく。ワンマン運転への切り替えを進めながら地下鉄と平行した路線の廃止を進めたものの、当時の市電の経営効率は悪く(バスよりも運賃が安かった!)、全線廃止に向けて一層に加速せざるを得なくなり、1974年(昭和49年)に77年間にわたり走り続けた名古屋の市電はその歴史に幕を下ろした。名古屋都市センターの企画展では、最終日には「お名残無料運転」を行ったことが写真と共に伝えられていた。一時は市内交通の花形であった市電であるが、モータリゼーションの進展で道路上では邪魔者になり、経営効率の悪さから財政上のお荷物となった。間違いなく、戦前・戦後の名古屋の発展を市電が支えたのであるが、こうして歴史を振り返ると終盤の流れには哀惜の念を禁じ得ない。

3.地下鉄の時代、そしてSRTへ  -リニア時代への対応-

現在は、図表2のように名古屋市営地下鉄の全線が開業して路線網を形成している。このうち、名城線は日本で初の環状地下鉄であり、上飯田戦は日本で最短の路線(1区間しかない)であり、東山線は利用者数が最も多い公営地下鉄(大阪御堂筋線が民営化されたため)となっている。名古屋市営地下鉄にはいくつもの日本一があるのである。また、名古屋の地下鉄の駅間はほぼ1kmとなっているから、筆者は散歩の際の距離計として活用している。

地下鉄の整備は、名古屋に地下街を産み落とし、都市化を促進してきた。しかし、東京や大阪と比べると鉄道網の密度は低い。その分をバスが補っているのだが、地下鉄は雨や雪に強く、定時制が高いことに利点があり、同時に大量輸送に向いているから、地下鉄網の拡充が本来は必要だ。しかし、今後の名古屋に新たな地下鉄の路線整備計画はない。市電時代の終盤に辿った経営の不均衡を招くような過剰投資を回避することが強く意識されている。

一方、2030年代に到来するリニア時代には、名古屋は国土における最大2時間圏(2時間で行ける範囲の人口が最も多い)の中心へと立地が変化する。こうした時代には、名古屋市の都市内交通の快適化を一段と進める必要がある。その一翼を担う交通モードとして期待されるのがSRT(Smart Roadway Transit)だ。新しい路面交通で、名駅や栄に加えて三の丸や大須などの拠点を繋ぎ、都心の回遊性をまんべんなく高めることが狙いだ。但し、事業化に向けてはまだまだ検討段階であり、交通局が事業主体となる事も決まってはいない。しかし、交通局100年の歴史に蓄積されたノウハウを活用することが不可欠のプロジェクトであることは間違いない。

市電から地下鉄に変遷した歴史を踏まえると、SRTは先祖返りのように思われるかもしれない。しかし、道路空間における自動車交通は増加の一途から転機を迎える時が近づいてきており、環境にやさしく快適で車窓が楽しい都市内交通として路面交通の充実を図る事は合理的で重要な事だ。今後の名古屋市の新しい交通モードとして早期の実現を期待したい。

(vol.81に続きます)

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