PFI法が制定されたのは1999年(平成11年)だが、PFIコンサルティング業務に着手したのは前々年の1997年(平成9年)だった。海外の事例に学び、行政負担の平準化とプロジェクトファイナンスの必要性を自治体向けに説く事から始めた。議員立法でPFI法制定の動きがあるものの、法制前の時点で関心を集める事は容易ではない。しかし、行政運営において有効な手法になると考え早期着手を試みた。予算無しの船出であった。
1.野村総合研究所から東海総合研究所へ -「地域開発の資金調達」をドメインに-
1987年に㈱野村総合研究所に入社した筆者は、地域づくりにおける資金調達手法の多様化を調査・研究するミッションを与えられた。証券化スキーム(不動産の証券化)、公債の多様化(TIF:Tax Increment Financeに代表される特定財源債)、プロジェクトファイナンスなどがその対象で、いずれも国内事例のないファイナンス手法を日本流にアレンジして提言する仕事であった。土木工学科の修士を出た筆者にとって馴染みのない世界ではあったが、地域開発の資金調達を多様化できれば地域づくりが活性化すると夢を抱いた。
その後、縁あって1995年に㈱東海総合研究所に移籍した筆者は、自分のドメインを探索しなければならなかった。高校卒業まで岐阜市で過ごし、東京に出て進学と就職をした筆者には愛知県や名古屋市に地縁はなく、当地では実績ゼロ、お得意様もゼロであるから、受託テーマと顧客を独自に開拓するしかない。そのため、当時の東海総合研究所が受託していなかった領域で、市場性のあるテーマを見つける必要があった。探索の末に掲げた目標は二つで、一つは社会資本の整備効果分析、もう一つがPFIコンサルティングを立ち上げる事であった。
当時、議員立法でPFI導入の制度化が国会で議論されていた。Private Finance Initiativeの略称で、英国で生まれた言葉だ。公共事業を民間のノウハウを活用して実施する手法で、行政コスト縮減とサービス水準向上の両方を同時に達成する事が企図されていた。海外事例に見る導入対象は、道路や港湾などの社会資本から学校や刑務所などの公共施設に至るまで多岐に渡るのであるが、いずれも設計・建設・運営を一括して民間に委ねるとともに、資金調達をも民間が立て替える点で共通していた。
日本においても、国や自治体の財政は厳しい情勢であったから、社会資本整備や公共事業の領域で行政負担額を縮減できれば意義があるし、民間のノウハウを活用してサービス水準が上がれば国民にとっても有益であるから、国会での法制化は実現すると思われた。但し、当時は法制化前の段階であるから、地方自治体側でPFI手法の導入検討に火が付くはずはない。それでも筆者には、自治体がいち早くPFI手法を学び、早期に導入すれば行財政運営に多様な選択肢が生まれて良い事にしか思えなかった。
2.PFI法制定前に企画したPFIセミナー -支えてくれた東海銀行公務部-
そこで、東海地域の地方自治体(県、市町村)を対象に、PFIセミナーを開催する事を企画した。内容はPFI論議の背景、PFIの定義と仕組み、PFIに期待される効果など多岐にわたるとともに、PFIの融資形態となるプロジェクトファイナンスは話が複雑なため、3回連続セミナーとして段階的に話を進める必要があると考えた。但し、何一つ受託していないのだから予算はない。民間シンクタンクは受託産業であるから、顧客から受託した予算で仕事をするのであり、自主的活動は許されていても受託業務の合間に行うべきという空気が存在していた。
しかし、筆者には受託業務が無いのであるから、これをメインに取り組みたい。そこで思いついたのが、親会社の東海銀行にセミナーの予算を付けてもらう事であった。上司に相談したところ、「銀行も簡単には予算を付けてくれないだろうが、ぶつかってみる価値はある。テーマからすると自治体の公金を扱っている公務部に持ち込むのが適切だろう」とアドバイスをもらい、上司からアポを入れてもらって訪ねる事とした。
ねじり鉢巻きで作成した企画書を持ち込んだ先は、公務部長をしておられた大野常務である。バリトン調の張りのある声と貫禄のある所作にオーラを感じつつ、気圧されまいと懸命に説明したところ、いくつかの質問を受けた後に「分かった。やろう!」との快諾が返って来た。せいぜい良くても「預かって検討する」と返されるのを覚悟していたので大変驚いた。恐らく、上司が前裁きをしていてくれたのだろう。感謝に堪えなかった。
翌年度(平成10年度)に500万円の予算を頂き、名古屋銀行協会5Fのホールを3日間借りて、PFIセミナーを開催した。自治体幹部や職員をお招きしたのであるが、集客は東海銀行公務部が手厚く協力してくれたお陰で、200名の予定席がいずれも満席となった。後輩と二人でセミナー資料を作成し二人で説明をしたのは当然であるが、プロジェクトファイナンスの内容については当時国内で導入例がなかったので、東海銀行のシンガポール拠点から現地行員を講師として招き、同時通訳で聞いて頂いた。内閣府からお招きしたご来賓には「極めて体系的で結構な内容であった。同様のセミナーは類例がない」とお褒めを頂いた。これが、筆者がPFIコンサルティングへの船出だった。
3.受託実績拡大の道程 -PPP/PFIは知恵の扉-
その後、実際のPFI案件の調査・コンサルティングを受託すべく営業活動を続けた。PFI法が制定された直後は案件が限られている中、㈱日本経済研究所とパシフィックコンサルタンツ㈱が先行して受託を伸ばしていた。日本経済研究所は日本政策投資銀行の全額出資シンクタンクで価格競争力が強く、パシフィックコンサルタンツは海外経験を積んでいたため、さしたる強みの無い我々が受託するのは容易ではなかった。また、三菱総合研究所や日本総合研究所もPFI案件に注力を開始し、付け入るスキは無いようにも見えた。
粘り強く案件を察知しては足を運び続けた結果、愛知県内初のPFI案件となる田原市の一般廃棄物処理場(炭生館)を初めて受託した(vol.48ご参照)。次に、愛知県の第1号案件となった森林公園ゴルフ場を受託し(vol.31ご参照)、名古屋市の第1号案件となった鳴海工場の受託へと続いた(vol.59ご参照)。これらの自治体では、第2号案件の受託にも結び付いた。地元自治体の第1号案件、第2号案件を受託した実績が奏功し、PFIコンサルティングの受託は徐々に増加・広域化し、業務量に応じて組織体制も拡充した。年度は覚えていないが、一時は国内受託実績で第2位に付けたことも励みとなった。
あれから四半世紀が過ぎた現在、公共事業におけるPFIの導入は当たり前となり、我が国のPFIコンサルティング市場は大きく成長した。また、PFIを狭義、PPPを広義とする官民協働事業として手法の類型も広がった。現役を卒業した今は、PPP/PFI事業の委員会に参画する機会が多い。
今や、PPP/PFIは行政手法として避けては通れない手法となっている。小泉内閣による「官から民へ」の打ち出しや、民主党政権時代のPFI一時休止から普及促進への転換など、紆余曲折はあったものの、公共事業を官のカネとヒトだけに依存する時代ではなくなった。紛れもなく、官民が協働して地域づくりや政策実現をする時代となったのである。PFI揺籃期に悪戦苦闘した甲斐あってか、後輩たちはこの領域で活躍している。今後も繰り返すであろう新しい手法の出現にも果敢に挑んでもらいたい。それは、後輩たちだけでなく、自治体の方々にもお願いする次第である。官民協働は知恵の扉だ。難しい時代であるからこそ、その扉を開ける勇気と熱意を持って頂きたいと願っている。