Vol.99  名古屋都市センター歴史まちづくりシリーズ②「広小路」探訪  -火除地で拡幅、鉄道開業で目抜き通りに-

名古屋都市センターが2022年度「歴史まちづくり連続講座」第二回を開催し「広小路」を取り上げた。講師は名古屋市役所OBで名古屋の都市計画史に詳しい杉山正大さん。講座を受講し「広小路」の誕生から目抜き通りへと発展する変遷をお聞きした。これを基に広小路が名古屋の経済軸として発展してきた経過を機能立地に着目して振り返ってみたい(挿入図は筆者が別途引用)。

1.名古屋城下碁盤割の南端がルーツ  -火除地として堀切筋を拡幅-

元来の広小路とは、広く拡張された道のことを指す一般名詞で、上野広小路や両国広小路など各地に存在している(県内にも刈谷市や豊橋市に広小路がある)が、名古屋ではそのまま通り名となったという。名古屋城下では碁盤割の南端に配されていた堀切筋と呼ばれる東西方向の通りが広小路の原型で、これが拡幅されて広小路と名が改められていく。

その拡幅は万治の大火(1660年)で名古屋城下の大半の家屋が焼失したことに端を発し、城主の命によって長者町から久屋町の間で堀切筋が北側に拡幅された。つまり、広小路誕生の目的は延焼防止の「火除地(ひよけち)」としての役割を持たせることにあった訳だ。この時、堀切筋の幅員は3間(約5.4m)であったものを13間(約24m)に拡幅されている。

名古屋城下の当初の主軸は名古屋城と熱田神宮を結ぶ本町通で、多くの有力商店などが立ち並び人々の往来が盛んだったはずだが、拡幅された広小路通りには本町通を超える賑わいがあった様子が尾張名所図会「広小路夜見世」で表現されている。火除地として拡幅されたのではあるが、江戸期には既にその後の目抜き通りとなっていく予兆があったと解されよう。

因みに、江戸期の名古屋城下では、本町通が南北方向の主軸であり、東西方向は伝馬町筋が主軸であったため、その交差点地点に高札場があった。即ち、伝馬町本町が街の中心地であったことを意味し、この時点では栄は中心地ではなかった。栄が名古屋経済の中心地として発展していくのは、明治期の広小路の東西延伸に伴う都市機能立地によるものだ。

2.鉄道開業により目抜き通りに  -名古屋駅、千種駅の開業で東西に延伸-

1886年(明治19年)の鉄道敷設に伴い名護屋駅が笹島に開業(その後、名古屋駅に改称。当時の通称は笹島ステンション)すると、名古屋駅へのアクセス道として広小路を長者町から納屋橋を経て西へ延伸することとなった。当時の名古屋駅は現在の笹島交差点付近に建設されたため、広小路は名古屋駅に突き当たるルートとなった(名古屋駅は1937年(昭和12年)に現在位置に移転)。

一方、1900年(明治33年)には中央線開設に伴い千種駅が建設されたため、今度は広小路を東へ延伸することとなった。この時問題となったのは愛知県庁の立地である。廃藩置県に伴い設置された県庁は、2度の移転を経て南久屋町に建設されており、広小路を塞ぐ位置に立地していた。このため、県庁を南武平町に新築移転させて広小路を東に延伸させている(図表2)。このように、広小路は鉄道駅の開業とともにアクセス道として東西に延伸され、同時に両駅を結ぶ幅員の広い通りとなって路面電車も走る目抜き通りへと発展していったのである。

その後、第二次世界大戦前の昭和初期には、千種駅から覚王山まで街路事業で東に延伸され、覚王山から東山方面へは土地区画整理事業によって延伸された。また、同時期に西側には複数の土地区画整理事業によって稲葉地まで延伸されている。名古屋市の成長とともに市街地が拡大する中で、広小路は東西への延伸が施されたのである。

戦後、大規模空襲により焼け野原となった名古屋は、復興土地区画整理事業によって現代の基盤を整備していくこととなる。この時に100m道路が東西方向(若宮通)と南北方向(久屋通)に整備されるとともに、広小路は幅員40mの道路として整備されて現在に至っている。但し、池下より東側は復興土地区画整理事業の区域から外されたため、広小路の幅員は拡幅されなかった。このため、後年になって街路事業により拡幅を行うことになったのであるが多年を要することとなり、東山まで幅員40mが全線確保されたのは平成の時代になってからである。

因みに、土地区画整理事業とは面的整備であり、整形な街区を整備すると同時に公園や道路などの基盤の充実を図る事業方式であり、道路用地は開発利益を活用して換地の中で生み出されていく。これに対して街路事業は線的整備であり、用地買収を行って拡幅事業を行うものである。名古屋市は、市域の多くを土地区画整理事業で整備してきた歴史があり、これによって都市基盤が充実しているのであるが、諸事情により土地区画整理事業ができなかった地区もあった。高度成長期以降に市街化が進んだ後で街路事業を行う場合には用地買収が容易ではなくなり、事業進捗が著しく遅くなる傾向があったが、広小路の池下~東山公園間はその典型となったのである。

尚、広小路は都市計画道路として位置づけられており、その路線区間は大正橋(庄内川)~上社となっている。つまり、都市計画の観点からは、広小路は名古屋を東西に貫通する道路として位置づけられているのであり、近隣地域とも連絡する主要道路ネットワークでもあって、現代名古屋の主軸であることがここでも確認できる。

3.経済軸としての発展経過  -広小路栄界隈は官庁街から商業中心へ-

広小路が名古屋の経済軸として主要な都市機能を沿道に立地させてきた歴史を振り返っておきたい。ここでは、官庁機能、拠点的商業機能(百貨店)、金融機能に焦点を当てて整理した(図表3)。

広小路、とりわけ栄地区への諸機能の立地が目立ち始めたのは、名古屋駅や千種駅の開業に伴い東西に延伸された時代である。まずは、明治初期の廃藩置県後に愛知県庁とそれに付随した県会議事堂、県警本部などが広小路の南久屋町に立地(その後武平町に移転)し、ほぼ同時期に名古屋区役所(後に市役所)が広小路の栄交差点(現、スカイルビル位置)に立地した。鉄道駅間を結ぶ広小路には、路面電車が敷設されて人流の大動脈となっていたことを踏まえ、行政拠点が広小路を選択して立地したことが伺える。これにより栄は、一時的に官庁街となったのである。この官庁機能の集積がその後の諸機能の立地を誘発したとも言える。

最初に誘発されたのは金融機関の立地だ。日銀が名古屋支店を開設(伏見)した後に、栄三丁目25番街区に洋館を建設して当時のランドマークになると、これを追うように東海銀行(伊藤銀行、名古屋銀行、愛知銀行の合併による)本店が広小路本町に立地し、三井銀行名古屋支店、三菱銀行名古屋支店が相次いで広小路沿いに立地した。広小路が金融ストリートとしての性格も帯び始めたことが伺える。

そして、その次に生じたのが百貨店ラッシュだ。いとう呉服店が広小路栄に百貨店を開設(現、スカイルビルの位置。後に南大津町に移転して松坂屋に)したのを皮切りに、十一屋呉服店も栄に百貨店(後の丸栄)を開設し、大阪からは三星百貨店が進出し(後に十一屋呉服店と合併して丸栄に)、中村呉服店もオリエンタル中村百貨店(現、名古屋三越)を広小路栄(現位置)に開設した。1900年初頭の栄地区には3つの百貨店が一気に集結したことになる。この時期に栄は名古屋の商業中心として地位を築いたと言って良いだろう。

このように、明治期に行われた東西への延伸によって広小路は、名古屋駅と千種駅という広域交通拠点を結ぶ主要動線となり、栄を中心に官庁機能→金融機能→商業機能を順に集積させ、経済軸として名古屋の発展を支えたと総括することができそうだ。

4.今後の栄のゆくえと広小路の役割  -名駅と栄を結ぶヒューマンな動脈に-

2000年にJRセントラルタワーズが開業したのを皮切りに、名駅地区には多くの高層ビルが立ち並んだ。これに伴い、名駅地区における業務機能、商業機能、宿泊機能等の集積が高度化し、結果的に栄地区の求心力が低下したとの見方がある。一面ではその通りなのだが、これは名古屋の都心構造を決定づけているものではないと筆者はみている。

名古屋における商業機能の中心性は、これまでも栄地区と名駅地区が抜きつ抜かれつを繰り返してきている。そして、今後の栄には新しい開発計画が数多く胎動している。既に開業した久屋大通パークや建設中の中日ビルはもとより、栄三丁目25番街区には三菱地所が高層ビルを建設してコンラッドホテルなどが入居する予定であるほか、名古屋三越やマルエイガレリア、栄町ビルなどでも再開発の検討が進むだろう。その他にも新しい開発が立ち上がってくる可能性も高い。つまり、今後の栄地区は明治期から形成されてきた商業中心としての機能が再び新陳代謝していく時代を迎えるのだ。従って、栄地区の地盤沈下は構造化していない。

つまり、名古屋は名駅地区と栄地区の2つの拠点が併存していくと見る方が自然だ。従って、この両拠点をつなぐ広小路には経済動脈としての役割が一層求められていくと考えるべきだろう。この時、広小路が担うべきはよりヒューマンな目抜き通りとしての役割だ。歩行者が楽しく歩け、公共交通と共存し、緑豊かな経済軸となっていくことを期待したい。それは魅力的な歩行者空間の創出とSRTの実現を広小路で行うことを意味する。広小路は人と公共交通に主眼を置いて一歩先を行かねばならない。名古屋自慢の目抜き通りなのだから。

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