中部地域は100年を超えてモノづくりとともに繫栄し続けてきた。(vol.26、27ご参照)。しかし、これは世界でも稀に見る事柄で、中部地域の特性として捉えるべきである。多くのモノづくり拠点は栄枯盛衰を経験しており、場合によっては10年という短期間でモノづくり拠点が空洞化してしまった事もある。時として激しく移ろうモノづくり拠点の歴史から、「モノづくり中部」に示唆される糧を紐解きたい。
1.あっという間に生産拠点が移り変わった製品たち -10年単位で生産能力シェアが激変-
日本の製造業は、世界に冠たる成長を遂げてきた。繊維産業、一般機械産業、電子・電気機械産業、輸送機械産業などがその代表であるが、戦後の日本の成長をけん引してきた製造業は、多くの品目で世界のトップシェアを獲得してきた。その結果、全世界に名が知れたモノづくりメーカーが多く生まれたのであるが、生産拠点は必ずしも日本にとどまったものばかりではない。日本で製品を開発して商品化した後、日本での生産が始まるのだが、気が付けば生産拠点が海外に映って行った製品は多い。
図表1はTFT液晶の生産能力シェアの変遷を示している。TFT液晶とは、ノートパソコンのモニターとして使用される主要部品だ。1997年には生産能力シェアの約8割が日本(図中の藤色)であったものが、2008年には1割強となっており、代わりに台湾(黄色)と韓国(あずき色)の合計で8割となっている。8割の生産能力を誇っていた地域が、日本から台湾と韓国へと移ろいだことを示している。グラフの年次を見ると、厳密には2006年には8割シェアは交代していることが分かるから、9年で移ろいだこととなる。
次に図表2では、エアコンとVTRの生産能力の変化を示している。エアコンについてみると、1991年には約6割のシェアが日本(図中のオレンジ)であったものが、2001年には中国(ピンク)のシェアが約6割となっている。同様にVTRについてみると、1991年に約5割のシェアが日本(図中のオレンジ)であったものが、2002年にはASEAN4ヵ国(黄色)が5割のシェアを有する状況へと転換している。いずれも10年で生産拠点が日本からアジアの各地へ完全に移ろいだことを示している。
以上に例示した3品目は、いずれも日本メーカーの生産品目であるのだが、メーカーが変わったのではなく、生産拠点が変わったのである。同じメーカーであっても、同じ場所で生産し続けるとは限らないことが示されている訳だ。その理由は、第一が生産コストにあることは明白だ。立地コストや人件費が安い場所へと生産拠点を移して国際競争力を保持した狙いがある。第二は物流の効率性である。需要の大きな市場が移り変われば、物流効率の良い場所に生産拠点を移すことが合理的だからだ。
このように、モノづくりとは「移ろう」ということを歴史は示している。10年もあれば完全に移ろいでしまう。移ろいだ跡に残るのは産業の空洞化だ。先の3品目はいずれも電気・電子メーカーの品目であったが、主として関西圏に拠点を置くメーカーであった。アジアの各地に生産拠点を移すと、それまで稼働していた工場は閉鎖、移転統合などとなり、良くしても生産ラインを変更することを余儀なくされる。こうした際には雇用が減り、地域内総生産(GRP)は縮小し、人口減少へと繋がることが多い。同時に地方自治体の税収は大きく落ち込むこととなる。製造業に生じる産業の空洞化は、地域経済への影響が極めて大きいのだ。
2.中部地域でも100年間の中で移ろいはあった -繊維産業から輸送機械へ-
中部地域で近代的な製造業が産声を上げたのは1900年代の初頭だ。トヨタグループのルーツである豊田商会と、ノリタケのルーツである日本陶器がほぼ時を同じくして現在の名古屋市西区則武新町に工場を立ち上げたのがモノづくり中部の源流である。その後、今日まで100年以上にわたり、中部地域はモノづくり地域として繁栄を続けてきた。中部地域全体で見れば一度も没落することなく、産業が空洞化する事もなく、全期間を通して日本経済の発展をけん引してきたのである。この事自体、世界でも稀に見る驚異的な歴史だ。
しかし、中部地域の中におけるモノづくりの変遷を見ると、品目では移ろいがあった。図表3は中部5県における製造業の品目別シェアの推移を示している。1960年代までの中部地域では、モノづくりの中心は繊維産業であった。戦後の復興から朝鮮特需を経て高度経済成長の初期までは、繊維産業が中部地域の主力として栄えた。ところが1970年にこれが移ろいだ。輸送機械が台頭したのだ。その後は、今日まで輸送機械を主力として中部地域のモノづくりは発展してきている。尚、1970年から1990年までの約20年間は、輸送機械産業以外の品目では激しく品目順位が変化している。この時期は中部地域のモノづくりにおける品目構造の変動期だったと言えよう。1990年以降は、品目順位の変動は起きておらず、モノづくり中部の品目構造が安定した。
この繊維から輸送機械への移ろいは、都市の移ろいを生んだ。繊維産業の拠点都市として発展していた一宮市や津島市、岐阜市では産業が空洞化し、代わって輸送機械産業の拠点都市として豊田市、岡崎市、刈谷市、安城市など西三河地域が生産拠点となり、今日に至るまで産業集積を高めてきている。しかし、中部地域の中で産業の空洞化を経験した都市が、今後どのように発展していくかは、むしろ中部地域の多くの地域の関心の対象とするべきではないかと筆者は考えている。
3.中部地域が銘ずべき処方箋 -土地の供給と創業環境、そしてポストコロナ-
今後の中部地域が、モノづくりを中心に発展を続けていくことを筆者は願っている。しかし、歴史が示すようにモノづくりは時として移ろい激しい産業なのだ。この事は常に銘じておかねばならない。今後の中部地域が中長期的に発展していくために、必要な視点を3つ挙げてみたい。
第一は、製造品目が移ろう際に生じる生産拠点の変化に対応することだ。新しい品目へとシフトする際には、既存の生産ラインを変更するよりも、新しい生産ラインを新設する方が効率的となる場合が往々にしてあろう。そうした際に、中部地域から国外を含む他地域へと移ってしまえば、中部地域では産業の空洞化だけが残ってしまう。中部地域の中で生産ラインが移れば地域全体としての産業力は維持できる。これに備えるためには、「安くて便利な土地の供給力」を維持していくことだ。
中部地域は高速道路や港湾、空港といったインフラが充実しているため、こうしたインフラ周辺では「安くて便利」な土地を供給することが可能だ。重要なインフラ整備は国や県が中心主体となるが、土地の供給は市町村が頑張らねばならない。企業が欲する条件は「安くて便利」であることなので、ここに焦点を当てて産業用地の供給を戦略的に計画することが必要だと考えている。
第二に、製造業以外の産業の創業を育むことである。オープンイノベーションやスタートアップといった起業を支援する政策が各地で取り組まれており、大変結構だと思う。但し、中部地域での起業数は、まだ強い伸びを示していない。東京での起業数が圧倒的に多いのが現状だ。愛知県や名古屋市が取り組む起業支援策が奏功して、今後の伸びに期待したいところだ。中部圏での起業のメリットは、トップメーカーの立地集積があることを背景としたビジネスマッチング機会にあると思われる。中部の大企業がスタートアッパーたちとコラボレーションする機会を促すことが出来ればと願ってやまない。これには、経済団体が本気になってチャレンジ施策を企画して取り組むことが最も効果的だと思われる。
第三に着目したいのは、ポストコロナの国土利用だ。既に、東京23区は転出超過に転じており、「東京脱出」の動きが鮮明化し始めた(vol.57ご参照)。リモート環境を活用すれば、従業地と居住地は離れていても良いし、起業地と取引地も離れていても良いこととなる。東京に集中する産業機能や起業数は、東京縛りから解放されれば「安くて住みよい場所」に立地を変えていくことだろう。この時には中部地域は極めて優位だ。リニアが開業すれば東京にアクセスし易くて東京よりも立地コストが安い上に、住みよい環境を十分に備えている。ここを差別化ポイントとして、拠点駅に近い地区における居住機能や業務機能の供給を戦略的に行うことが有効だ。
土地の供給は郊外エリアで、起業環境と居住機能・業務機能の提供は都心エリア(拠点駅近傍等)で行うべきで、こうした政策を中部地域が広域的に取り組むことが出来れば、モノづくり産業を基軸としながらも、産業構造に厚みが生まれ、持続的な発展を遂げていくことが可能になろう。中部の中にあって産業の空洞化を経験した一宮市、津島市、岐阜市などにはこうした視点での取り組みを期待したい。国土における中部地域の立地条件、充実したインフラ条件を戦略的に活かして、100年を越えて繁栄し続けているモノづくり地域の更なる発展を生み出して行きたいものだ。