Vol.30賑わいを創り出せ!津島市・天王川公園の挑戦 -100年を越える歴史的公園にPark-PFIの導入-

愛知県・津島市は愛知県西部の尾張地域に位置する歴史のある都市だ。この街には津島神社があり、その祭礼である天王祭は日本を代表する川祭りで、車楽舟はユネスコ無形文化遺産にも登録されている。また、日本最大級の藤棚に、圧巻の藤の花が咲き誇る春には藤まつりが開催される。天王祭と藤まつりの開催の舞台となるのが天王川公園だ。その歴史は100年を越える。この由緒ある公園にPark-PFIが導入されることとなった。

1.津島市ってどんな街?  -古くは鳥居前町で湊町、近代はガチャマンの街、今は祭りの街-

津島市の歴史は古い。市内の遺跡からは弥生時代の土器が出土し、飛鳥時代には集落が形成されていたとされる。奈良朝時代に寺院が建立され始めたと推定され、平安時代の810年に津島神社が現在地に遷座されたと津島神社社伝は伝えている。

津島市の名の由来ともなっている津島神社は、東海地方を中心に全国に約三千社ある天王社の総本社であり、厄除けの牛頭天皇(ごずてんのう)を祀ることから、東海地方をはじめとして広く信仰を集めてきた。今でも年間100万人程の参拝客が訪れている。

津島市の歴史でもう一つ大切なことは、津島湊(みなと)の存在であった。鎌倉時代に湊町(みなとまち)となり、その後の発展の礎を築いたのである。

戦国時代(16世紀)になると津島神社の鳥居前町としての特性が育まれ、湊の機能が地域を豊かにしていたことを背景に、織田家が勝幡城(しょばたじょう:勝幡城跡は稲沢市内)に拠点を置き、津島の町は織田家三代(信定、信秀、信長)の経済基盤となった。織田家は城下の津島神社を保護し、深く良好な関係を築いていたと伝えられている。信長はこの勝幡城で生まれたとの説が有力視され、その後清州城主(尾張国守護代)となり、天下布武を唱えて岐阜城主となっていったのである。

江戸時代になると、津島は湊町として一層に発展して尾張地域の物資集散地となり、佐屋街道の宿場町としても栄えた。信仰(津島神社)と物流(津島湊)と人流(宿場町)の拠点として、この時代の津島は尾張随一の発展を遂げていた。

明治になると、東洋紡績津島工場をはじめとして大小の紡績工場が立地し、繊維産業が集積した。昭和に入り、第二世界大戦で敗戦を喫した日本の経済はどん底にあえいだが、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争で日本は国連軍から様々な物資の調達を求められると(朝鮮特需)、繊維製品(軍服、麻袋、毛布、テント等)はその中心となった。1947年(昭和22年)に市制を施行していた津島市の繊維産業も朝鮮特需の恩恵を受けて隆興し、ガチャマン景気(ガチャンと織れば万の金が儲かるの意)に潤う尾張地域の中心都市の一つであった。その後もナイロンやポリエステルなどの化学繊維が開発されたことや、1ドル360円の固定相場制(円安構造)によって輸出が拡大する環境が相まって、繊維産業はさらに成長して日本経済の高度成長期を支えた。この時代の津島市は、繊維産業都市として豊かさを謳歌したのである。

ところが1970年代後半(昭和50年代)に入ると、繊維製品は途上国からの輸入製品に押されるようになり、1985年のプラザ合意で変動相場制(円高シフト)となったことが決定打となってアパレル製品の輸入依存が構造化すると、繊維産業は長い不況に陥った。これに伴って津島市では紡績工場が相次いで閉鎖され、今では繊維産業都市としての津島市の繁栄は、過去の事となってしまった。

現在の津島市の玄関口である名鉄津島駅を西側に降りると、津島神社に向けて真直ぐに延びる天王通りがある。津島市の目抜き通りだ。しかし、その沿道にはシャッターを閉じた店舗が軒を連ねる。産業は衰退し、人口は減少に転じ、往時の人通りはなく、ひっそりとした風景が横たわっている。こうした状況は津島市の財政にも反映されている。財政力指数は0.78と大きく1を下回り、自主財源だけでは到底運営できない厳しい状況となっている。

しかし、津島市には今でもその名を轟かせているものがある。それが祭りだ。尾張津島天王祭(以下、天王祭)を筆頭に、尾張津島藤まつり(以下、藤まつり)、尾張津島秋祭りなど、市の内外から多くの人々が集う伝統祭りが数多く現在に受け継がれている。とりわけ天王祭は別格だ。津島神社の祭礼として室町時代に始まり600年以上の歴史を有する由緒ある祭りである。天王祭の車楽舟(だんじりぶね)などを含む「山・鉾・屋台行事」が2016年12月にユネスコ無形文化遺産に登録されたことから、名実ともに日本を代表する文化資源の一つとなり、津島市の象徴であって市民の誇りともなっている。祭りの街・津島の代名詞ともなっている天王祭と藤まつりの舞台となるのが天王川公園なのである。

2.天王川公園ってどんな公園?  -100年を越える歴史と由緒ある公園-

津島市が湊町として発展したのは、天王川に面して津島湊(みなと)があったからだ。江戸時代まで木曽川の分流にあたる天王川(木曽川支流の佐屋川のさらに支流)に立地していた津島湊は、伊勢と尾張の交易の玄関口となっていた。しかし、度々の洪水が当時の津島村に甚大な被害をもたらしたことから、江戸後期1785年の河川改修により天王川上流部はせき止められて陸地(蓮田)となり、下流部が佐屋川の入り江のように残った。この時点でも下流は伊勢湾に繋がっていたため湊機能は残っていたが、その後1899年(明治32年)に佐屋川も廃止されると、伊勢湾とのつながりは無くなって湊は消滅し、天王川は完全に孤立して池となった(現在の丸池)。ここに、現在の天王川公園の原型が出来上がったのである。

丸池一帯を町民の憩いの場所にしようと1918年(大正7年)に津島町議会で公園計画が議決され、1920年(大正9年)に天王川公園として開設された。以来、今日まで100年以上の歴史を誇る津島市の聖なる公園だ。一時は丸池の外周で競馬やオートバイレースが開催されたり、動物園が設置(1935年~1998年)されるなど、往時の豊かさを反映した公園でもあった。1978年(昭和53年)には藤棚の設置工事に着手し、1983年(昭和58年)に日本最大級の藤棚が完成した。1986年(昭和61年)に第一回藤まつりが開催されて以来、津島の春の風物詩となっており、咲き誇る藤の華やぎは圧巻だ。

そして、天王川公園が最大に賑わうのが毎年7月に行われる天王祭だ。宵祭では無数の提灯をまとった巻藁船(まきわらぶね)が天王川に漕ぎ出し、揺らめく提灯が川面を照らす風景は誠に美しい。朝祭には車楽舟が能人形を飾って漕ぎ進む。日本三大川祭に名を連ねる雅な祭りで、津島市と天王川公園にとってなくてはならない存在である。

3.新たな賑わいを創る挑戦が始まった  -Park-PFIの導入-

天王川公園には、天王祭(夏季二日間)で約25万人、藤まつり(春季二週間)で約30万人の集客があるが、祭りの期間以外は市民の憩いの公園として静かに佇んでいる。津島市のシンボルともいえる公園であるが、課題もある。年間を通して市民の利用を促進する事、老朽化した施設が一部にある事、祭りの期間に駐車場が不足する事などである。

そこで、津島市はPark-PFIの導入を検討した。Park-PFIとは2017年(平成29年)の都市公園法の改正で生まれた制度で、都市公園内にカフェ等の収益施設を設置する事を許可し、その収益などで公園の維持管理等を行わせる民活手法である。都市公園は「使われてなんぼ」であるとの意識改革を公園管理者に求めたとも言える。賑わい創出に資する収益施設を民間企業の力で誘致させ、利用価値を高めようという狙いがあり、同時にその収益で公園を維持管理させれば、行政としては一石二鳥となるわけだ(賑わい創出と維持管理費の縮減)。名古屋市でも久屋大通公園と徳川園で導入し、現在は鶴舞公園で事業者を募集している他、全国で取り組みが広がっている。

津島市も令和2年度から民間事業者にマーケットサウンディングを行うなど検討を重ね、令和3年度に事業者募集を実施する運びとなった。但し、100年以上の歴史を有する天王川公園は津島神社と関係が深く、地域商店街をあげての祭りの舞台となる事などから、このPark-PFIには固有の特性が含まれている。

先に述べた通り、市民の利用促進、老朽化施設への対応、駐車場の拡充などの課題に対応することに加えて、事業者には祭りへの運営協力や、天王通り商店街等と連携した賑わい創出にも積極的に関与して欲しいという建て付けになっている。公園施設の充実化と賑わいの創出及び維持管理費の縮減に狙いの中心があるが、イベント創出等に際して商店街と連携し、天王通りの活性化へと波及させることにも期待がかけられている点が特徴だ。一方、市民目線から見れば、期待の目玉となるのはカフェやレストランの誘致だろう。藤棚や丸池を眺めながらお茶や食事を楽しむことが出来れば、天王川公園が市民にとって更に身近な存在になり、市民交流の拠点として親しまれるに違いない。

祭りの街・津島のシンボルとも言える天王川公園。湊町時代やガチャマン時代を経て、今日の津島市にとって賑わいづくりは市の重要な政策課題である。天王川公園のPark-PFIは、その担い手づくりの意味合いもあり、シビックプライド(愛着、誇り)に繋げていく取り組みとも言える。まさに、祭りの街・津島が取り組む令和の挑戦である。天王川公園の格式に適合し、新しい魅力が生み出される提案が寄せられ、祭りの街・津島の新たな活力創出につながることを期待したい。

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