Vol.98  名古屋都市センター歴史まちづくりシリーズ①「三の丸界隈」探訪  -名古屋城郭武家屋敷からの歴史-

名古屋都市センターが2022年度「歴史まちづくり連続講座」を開催した。講師は名古屋市役所OBで名古屋の都市計画史に詳しい杉山正大さん。講座を受講して名古屋市の歴史を改めて探訪することとした。第一回は「三の丸界隈」。名古屋城郭にあって武家屋敷としての歴史を色濃く持つこの地区の変遷についてお話を聞き、これを基に三の丸地区の歴史と特性を筆者の目線で振り返ってみた(挿入図は筆者が別途引用)。

1.那古野城時代まで  -弥生時代の古墳跡、荘園時代の拠点-

現代の市民にとっては、名古屋市のルーツは名古屋城築城による「清州越し」なのであるが、過去に行われた埋蔵文化財調査等によると、愛知県図書館、名古屋能楽堂などの土地では弥生時代の住居跡や古墳跡が確認されているという。古代から熱田台地には人々の営みがあったのだ。]

そして、時代は過ぎて荘園制度時代には那古野荘という荘園が当地にあった(12~15世紀頃)とのこと。当時の那古野村の拠点が現在の二の丸辺りに築かれていたと解され、これが室町時代に那古野城(今川氏築城、織田信長生誕の城)へと変遷していく。那古野荘から那古野城の時代には、既に「中小路」が形成されていたらしい。「中小路」とは、その後の三の丸の東西方向の主軸となる通りで、現在の愛知県西庁舎と名古屋市西庁舎を挟む通りの原型だ。また、若宮八幡宮、那古野神社(天皇社)、万松寺などもこの時代の三の丸界隈に存在していた。三の丸には、名古屋城築城前(古代から中世にかけて)の時代から悠久の時が流れていることを改めて知らされる。

2.名古屋城築城後の三の丸  -武家屋敷街の形成、そして軍用地へ-

1610年に徳川家康が「清州越し」と名古屋城築城を命じ、1612年に名古屋城天守閣が完成するなど名古屋城下が構築された。近世以降の名古屋の歴史の幕開けである。那古野城よりもはるかに規模の大きな縄張りとなるため、城郭や碁盤割を整備するために三の丸界隈に立地していた若宮八幡宮、那古野神社、万松寺などは移転されている。

清州越しでは、清州にあった地名や橋の名が名古屋城下に継承された。堀川にかかる五条橋、錦にある桑名町、長者町、本町、七間町、伊勢町など今でも馴染みの地名は清州から引き継がれたものだ。

この築城によって三の丸地区は形成され、尾張徳川藩の重臣たちの武家屋敷と奉行所、評定所などが連なる街となった。武家屋敷は三の丸地区の南側(丸の内三丁目)や東側(白壁一丁目)などにも展開したようだが、三の丸地区は特に上級武士に与えられた。中でも、重職にあった成瀬家、竹腰家、清水家、荒川家などはとりわけ大きな屋敷を構えていた。現在形成されている官庁街(愛知県本庁舎、名古屋市本庁舎およびその他の国県市の庁舎群)のほとんどは、これらを含む上級武士の武家屋敷跡に立地していることとなる。

明治に入ると廃藩置県(明治4年:1871年)によって藩は県に置き換わり、名古屋県、犬山県、額田県に編成されたのち、これらが統合されて現在の愛知県となった(明治5年:1872年)。従って、今年(2022年)は愛知県政150年目の節目に当たる。官選により県令(現在の県知事)が配置され、最初の愛知県庁舎は竹腰邸跡に置かれた(現在の愛知県警本部)。その後、手狭になると東別院に仮移転した後、南久屋町に県庁舎が建設(明治10年:1877年)されたが、広小路通りの延伸をふさぐ位置にあったため南武平町(現、芸術文化センター)に新築移転(明治33年、1900年)した。そして1938年(昭和13年)に現在の場所(騎兵第三連隊跡地)に新築移転し、戦災を免れて今日まで佇んでいる。2014年(平成26年)には名古屋市本庁舎(昭和8年竣工)とともに国の重要文化財に指定されている。

廃藩置県に伴い、三の丸地区は全て国有地化されることとなり、武家屋敷群は軍用地として接収された。1873年(明治6年)に名古屋鎮台が置かれたのを皮切りに、名古屋城郭には日本帝国陸軍の第三師団が配備され、三の丸を含む城郭内外は軍司令部や駐屯地、練兵場などに用途を変えた。三の丸から日清・日露・太平洋戦争に兵団が送り込まれたのも史実であり、後の大戦で大規模な空襲を受ける背景となっていくのである。

尚、1893年(明治26年)に名古屋城の本丸と西の丸の一部は宮内庁管轄となって「名古屋離宮」と称され、天皇陛下の行幸の際に利用されていた。離宮と軍用地が城郭内に同居していたのである。その後、1930年(昭和5年)に名古屋城は名古屋市に下賜され、天守閣や御殿などの城郭建造物は国宝に指定された。天守閣を含む城郭としての国宝指定は第1号である。また、1939年(昭和14年)には名古屋城郭一帯を保護するために風致地区(自然を保護して私権を制限する地区)がかけられている。

3.戦後の三の丸  -戦災、米軍占領、そして官庁街へ-

明治期から大正期を経て昭和初期まで軍用地として使用されていた三の丸地区は、第二次世界大戦の空襲で大きな被害を受けた。名古屋城天守閣をはじめ、ほとんどの建物が消失したのであるから、現在の愛知県本庁舎と名古屋市本庁舎が残ったのは奇跡のようだ。

終戦を迎えると、三の丸地区の軍用地は米軍の占領地となった。米国軍人の居留地としてキャッスルハイツと呼ばれた建物が立ち並び、三の丸の外側の周辺地区には日本人帰還兵向けの簡易住宅が数多く立地したようである。戦前は軍用地として使用され、戦後も戦いの後遺症と関係しながら利用された時代が続いたのである。

戦後処理が終わると、三の丸地区は軍用地から解放されて大蔵省管轄となり、1947年(昭和22年)に都市計画公園として利用されることとなった。城郭としての歴史を尊重するとともに平和な空間として利用されることへの願いが込められていたように筆者には感じられる。これを守るために名古屋市が事務局を務める「郭内処理委員会」が設置され、その土地利用が管理されることとなるのであるが、徐々に官庁街へと姿を変えていく。愛知県と名古屋市の本庁舎が存在していたこと、明治以降は国有地となっていたことなどが絡み合い、国県市の官庁街として利用することが合理的であるとされたのだろう。1959年(昭和34年)には一団地の官庁街として利用することが都市計画決定された。

この時期に整備された行政施設としては、名古屋高等裁判所(名古屋控訴院からの移転)、旧愛知県産業貿易館本館(現、リニア名城変電所建設地)、名城小学校などがある。名古屋控訴院は現在の名古屋市政資料館として保全されている。こうして、尾張徳川藩の重臣の武家屋敷跡は軍用地から行政用地へと姿を変えることとなった。清水邸跡は現名古屋市能楽堂に、成瀬邸跡は現名和高校に、荒川邸跡は現名古屋市本庁舎として使用されている。また、愛知県西庁舎(1962年築)と名古屋市西庁舎(1964年築)もこの過程で建設されている。

一方、現在は名残を残さない用途としても多様に使われていた。例えば、現愛知県図書館は、名古屋城築城後は重臣屋敷となり、明治期には第三師団司令部が置かれ、一時は西区役所として使用された後に戦後は米国領事館として使用された経緯があるとのこと。旧愛知産業貿易館本館は名古屋城下では評定所が立地し、その後に師範学校(愛知教育大学)用地となり、その後は憲兵隊本部が置かれたようである。名城小学校も名古屋城下では武家屋敷であったが、愛知一中(現、旭丘高校)用地となり、大正期には名古屋国技館として使われたという。名和高校は、名古屋城下では成瀬邸であったが、明治期に名古屋鎮台病院となった後、名城小学校から移転してきた愛知一中が立地し、同一中が古出来町に再移転した後に名古屋帝国大学本部が置かれ、戦後に県立第一高女となって現在に至っている。

尚、三の丸地区には数少ない民間企業も立地している。例えば、中日新聞本社がそれで、戦後に都市計画公園となった後に郭内処理委員会で審議されて中日新聞社用地となったようである。三の丸が歩んだ「武家屋敷街→軍用地→官庁街」という変遷を振り返ると特異に思えるが、恐らく国有地との交換などが行われた可能性があると思われる。

4.三の丸の今後  -官庁施設の建て替え期に考えるべきこと-

今、三の丸の官庁街は建て替え期を迎えている。各庁舎は築50年を越えた建物群となり、建て替えか長寿命化(大規模改修)を迫られている。筆者は、三の丸は新たな土地利用へと再び変遷してよいと考えている。官庁街として占有されている現状では、三の丸地区が持つ歴史性に蓋をした形となっており、内外の人々への発信性が弱い。筆者が幹事を務めている「三の丸ルネサンス期成会」は文化・交流機能を導入するなど多様な人々が三の丸に入り込める空間とすることで、名古屋城と一体的に「城下町・名古屋」を身近に感じる空間へと変える機会だと提言した(vol.16、95ご参照)。

老朽化した官庁施設を個々に建て替えなどすれば、今後半世紀以上にわたり再び蓋をされてしまう事になるから、今こそ新たな空間へと変遷させる好機だ。その際には、これまでの歴史を踏まえ、国県市が隣接する官庁街としての効率性は保持しつつ、民間投資を呼び込みながら名古屋城とともに発展した歴史をリスペクトできる高機能な都心空間として再整備していくことが望ましい。その先には、名古屋に対するシビックプライドの向上へと繋がっていくだろうと思うからだ。このような考え方への共感が広がることを願いたい。

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