中部国際空港開港20周年に寄せて(その1)
愛知県に、「新しい国際空港が必要」と最初に説いたのは、桑原幹根愛知県知事であった(1966年)。その後、一貫して消極姿勢を崩さなかった国に対し、根気強く夢をあたため続け、実現への願いを開港へと結びつけたのは、地域の行政と財界が一丸となって挑んだ成果である。中部国際空国開港20周年に寄せて、幾編かに分けてセントレアを取り上げることとしたい。本稿(その1)では、2005年に開港するまでの約40年間の軌跡を紐解くこととする。
1.胎動の端緒 -中部圏に新たな空港を!旗を上げた地元と冷ややかな国の攻防-
中部国際空港が胎動する端緒は、1960年代に遡る。当時の日本は、経済的には高度成長期にあったが、国土計画的には揺籃期と呼べる時期であった。1962年に国が全国総合開発計画を初めて策定して国土計画を掲げたのをはじめ、大都市問題への対応から首都圏整備計画、近畿圏整備計画および中部圏基本開発整備計画が順次策定され、目指すべき地域構造や、都市機能の集積(土地利用政策)と社会資本整備の在り方等が計画に位置づけられる時代となった。新たな空港の実現は、これらへの記述が試金石となる。
中部圏開発整備法が公布されたのは1966年で、中部圏というブロック単位の発展を意識する時代に突入した。地域の推進組織として㈳中部開発センターが創設されるとともに、圏域内の行政機関が合意形成を図る場として中部圏開発整備地方協議会が設置された。中部圏基本開発整備計画の原案は、㈳中部開発センターで検討されたものを地方協議会で合意した後に、国土審議会の審議を経て建設大臣(当時、現国土交通大臣)が決定する事となる。しかし、地方協議会が原案に「新たな国際空港の建設」を盛り込んでも、成案を得るまでに国が削除するという構図が続き、中部圏としては㈳中部開発センターを核に努力したのだが、国が認めないという攻防が長らく展開されることとなる。
小牧空港(現、県営名古屋空港)に依存していた愛知県に「新しい国際空港が必要」として、桑原幹根愛知県知事が県議会で「三河湾国際空港」の建設意向を表明したのは1966年であった。同時期に中部圏基本開発整備計画の原案を検討していた㈳中部開発センターの委員会でも、4,000m級滑走路を持つ「国際大型空港」が必要と提言され、同計画への記述が模索されたようである。しかし、国は具体的な記述に取り合わず、せめて「調査検討が必要」という記述を中部圏側が求めた経緯があるが、1968年に策定された第一次中部圏基本開発整備計画には、新たな国際空港に関する記述は何一つなされなかったのである。
この時代の議論と経緯に詳しい竹内伝史岐阜大学名誉教授は、著書「大都市圏空港『セントレア』構想の夢と現実」の中で「地元の熱意にもかかわらず、国(中央)の『中部圏の国際空港』に対するまなざしは未だ冷ややかなものであった」と懐述されている。
一切の空港関連記述が見送られた翌年の1969年に、中部経済連合会が「大規模国際貨物空港構想」を発表した。愛知県幡豆郡一色町沖合を想定した4,000m滑走路4本と横風用滑走路2本からなる超大空港の構想で、規模の大きさもさることながら洋上空港の国内事例すらない時代の大胆な提唱であった。しかし、同年に策定された新全国総合開発計画でも、この提言が正面から受け止められることはなかった。
その後、1970年代に入ると、国の拠点的国際空港の政策は①新東京(成田)国際空港の整備、②東京(羽田)国際空港の沖合展開拡張、③新関西国際空港の整備(3大プロジェクト)に絞られ、それ以外の国際空港論議には耳を貸さない姿勢を隠さなくなった。取り付く島のない国の姿勢に、中部圏側の自治体は身動きが取れなくなったように映る。但し、財界は根気強く活動を続け、1976年に名古屋商工会議所、中部経済連合会、中部開発センターが「国際空港問題共同研究会」を立ち上げ、当時の土木学会の重鎮研究者であった八十島義之助東京大学教授を委員長として招聘して検討し、1978年に同研究会が「伊勢湾内に新国際空港が必要」と提言を行っている。灯を絶やさない努力が続けられていたのである。
尚、この提言の中で、新たな空港建設に向けては「空港の民営化の動向を視野」に置くべきことを、この時点で示唆している点は大変興味深い。
2.中部空港調査会の設立(1986年) -地元の調査活動が国にアピール-
財界の提言というバトンを受けて自治体も再び動きを活発化させていく。1979年に愛知県が国に対して新国際空港を要望したのを皮切りに、名古屋市は1980年に「名古屋市基本計画」の中で新国際空港を位置づけた。更に、愛知県が1982年に「第五次愛知県地方計画」に新空港を位置づけ、1983年には三重県が第二次長期総合計画で、1984年には岐阜県が第四次総合計画で新空港を次々に位置づけた。
地元自治体が相次いで新空港を各々の総合計画に位置づけたという事は、その建設を目指すと地域が揃って表明した事を意味した。地域の姿勢を代表するようにして、鈴木礼治愛知県知事は「中部新国際空港建設運動開始宣言」を発し(1984年)、明示的に空港建設の狼煙を上げた。ここに地元の自治体と財界が共通の目標を掲げた形が正式に出来上がり、地域の官民が一丸となる機運が醸成されて1985年に3県1市(愛知県、岐阜県、三重県、名古屋市)と名古屋商工会議所、中部経済連合会により㈶中部空港調査会が設置されたのである。国が国土計画等にその位置付けを記述していない中で、中部国際空港誕生に向けた第一の山場を迎えたと言えた。
地元の調査活動の本格化は国に対する着実なアピールとなり、翌1986年に第5次空港整備五箇年計画の付属資料の中で「21世紀初頭における我が国の国際航空需要に対応するため国際空港の在り方について調査を行う」と記述され、ここには「中部新国際空港を含める」と口頭説明があったという(竹内岐阜大学名誉教授著)。更に翌1987年には第四次全国総合開発計画において「空港需要の動向等を見極めつつ、中部圏等における対応策について調査を続ける」と記述された。ようやく中部新国際空港を検討する事を、霞の向こうにではあるが国が認めたのである(当時は「中部新国際空港」と呼ばれていた)。桑原幹根愛知県知事が端緒となる口火を切ってから、この時点で20年が経過していた。
3.空港立地部会 -候補地は18カ所→7カ所→4カ所に、そして常滑沖選定へ-
㈶中部空港調査会は、設立後速やかに専門委員会を発足させ、その下に航空技術部会、空港構想部会、空港立地部会が組成された。本稿では空港立地部会に紙面を少々割かせて頂きたい。空港立地部会の部会長に就任したのは加藤晃岐阜大学教授(後の岐阜大学学長)であり、筆者の実父である。当時55歳の父は、既に胃がんや脳梗塞を患っていたものの奇跡的に健康を維持して業務に当たることが出来ていた。筆者はと言えば、㈱野村総合研究所に就職が内定したばかりの青二才で、㈶中部空港調査会に接する機会など当然になく、当地で展開されていた中部新国際空港建設への熱き攻防を知る由もない。
国が新たな国際空港建設を明示的に認めた訳ではない段階で、空港立地部会は候補地選定を進めた。地形条件や土地利用現況などを1kmメッシュに読み取り、メッシュが連担して条件を満たす500haエリアを探索する作業によって18カ所が抽出され、更に制限表面をクリアできる(航空機が離着陸時に旋回しても地表や構造物と干渉しない)7カ所が絞り込まれた(図表1)。そのうち、名古屋から遠い鳥羽と伊勢湾南部、小牧空港に近い愛岐丘陵が外されて、伊勢湾西部(四日市・鈴鹿沖)、伊勢湾北部(鍋田沖)、伊勢湾東部(常滑沖)、三河湾(一色沖)の4カ所が残された。空港立地部会は、この4カ所について客観的な比較データをとりまとめて公表(1988年)し、決定は3県1市のトップに委ねられることとなった。その後、3県1市の首長懇談会にて常滑沖と合意された(1989年)事は公知の通りである。
空港立地部会が公表した「立地可能性調査」による比較データは、常滑沖の比較優位性が高く、一色沖が次いで良く、その他は比較劣位に順位するように読み取れるものであったが、父の内心には少々異なる評価があったようである。
後年、父と晩酌を共にした際には、幾度も立地選定の話題が登場した。行政から委嘱を受けた仕事の中で、空港立地選定問題が強く印象に残っていた模様である。父曰く、「岐阜県や三重県への配慮が必要な中で、名古屋市からのアクセス性が最も重要であるから、鍋田沖か常滑沖に絞られると早晩に考えていた」と。そして、「伊勢湾岸道の整備計画があって国土幹線高速道路網と接続できる鍋田沖の立地適正が高いと当初は思っていた」とも。しかし、検討が進むと鍋田沖は木曽川の流心線や名古屋港の航路との干渉が懸念された上に、「地盤が悪い」事が最大のネックになったと語っていた。
この件は、晩酌時の定番で繰り返し話題に上ったのだが、話の終わりには「常滑沖3kmまでの海底には常滑層と呼ばれる海食台地があって地盤が良いから、不等沈下が起き難く地震にも強い」と落着の正当性を語る父の姿があった。父は交通屋であったが、空港立地選定に当たっては地盤条件を重視したようである。
さらに晩年、病床に臥している時には、寝言のように「鍋田沖は地盤が悪くてなぁ」と呟いていたことも記憶に鮮明だ。本心では「鍋田沖を推したかったが地盤問題は看過できないから仕方がなかった」との思いを胸中に持ち続けたようである。
4.中部国際空港株式会社の設立(1998年) -民間空港として建設・運営へ-
㈶空港調査会では、航空技術部会と空港構想部会が精力的に検討を進め、1990年に「中部新国際空港基本構想」を公表し、これを持って国への働きかけを強めた。これまで再三にわたる働きかけ(要望)に対して首を縦に振らなかった国は、第6次空港整備五箇年計画で「調査実施空港」の位置づけを与えた(1991年)。遂に、中部新国際空港は、実現に向けて国の同意を引き出したに等しい成果を得たのである。
その後、㈶空港調査会は陸域環境調査、海域現地調査、漁業影響調査などを実施するとともに、1995年に「中部新国際空港事業化に関する調査状況について」を公表して検討熟度を高めた。1996年には第7次空港整備五箇年計画で中部新国際空港が「実施空港」へと位置づけられ、翌年の政府予算で新規事業として遂に採択された。地域は、1990年代を通して「新しい空港の建設」が夢から現実へと変わる実感を抱いていた。
そして1998年5月、いよいよ国、地方自治体、民間による出資で中部国際空港株式会社が設立された。空港を建設し運営を行う主体の誕生であり、中部国際空港開港への第二の山場を迎えたのである。空港建設の総事業費は7,680億円にのぼり、その資金調達は「無利子資金:有利子資金=4:6」と計画された。無利子資金(出資、無利子貸付)の負担内訳は「国:地方自治体:民間=4:1:1」とされ、国の財政支援を大きく頂いたのだが、出資金の構成は「国:地方自治体:民間=4:1:5」となり、中部空港株式会社は民間が最大株主の事業主体となった(図表2)。前述の八十島委員会の指摘が現実のものとなったのである。
地方自治体は、この他に、空港連絡橋をはじめとするアクセス整備などを行う必要があったから、これらを加えた空港関連費用は重くのしかかった。開港を目指す2005年には「愛・地球博」開催を控えていたため、2000年から2005年にかけて関係自治体の予算は空港・万博シフトとなり、それ以外の分野では新規予算を獲得する事がほぼ不可能となったが、当時は「欲しがりません、開くまでは」という空気に満ちていた。
一方、建設工期が非常に厳しく予断を許さない中、埋め立て土砂の確保に苦心するなど、工事の行く手には多難が待ち受けていた。中部国際空港株式会社は、1999年11月に建設事務所を開設すると2000年8月に空港島の護岸工事に着手し、2001年3月には早くも護岸が概成して埋立工事に着手した。埋立工事では管中混合固化工法(土砂打設管の中でセメントミルクを注入する工法)を採用して地盤改良を早めるなど、土木技術の英知が注ぎ込まれた。目を見張る工事進捗を見せつつも、「2005年2月17日の開港予定に果たして間に合うか…」と地域社会が固唾を飲んで見守る中、見事に予定通りの開港を迎えたのである。
(その2に続きます)